ねっこのにっき。

思考の置き場所。

久々に、

 

ヨルシカの音楽を聞いている今です。

 

久々になった理由は一つではなくて、

そんな理由なんてものは心底どうでもよいものなのですが、

 

久々になったことで改めて彼らの音楽が私にとっていかに特別な存在かということを思い知っています。

 

 

「幻燈」という画集アルバムの曲を通して聞いていて、少し疑問に思ったこれまたどうでもよいことがありまして、それを放置するには頭のブレーキが今は弱っているようなので、まぁ適当に書いておくか、とここへ来ました。

(書き差しの下書きが何枚もあるのは放置できるらしいのになぁ。)

 

 

疑問、と書いたけれど、そんな大それたものでもないかもしれない、ヨルシカの音楽を聞いているときの私の心の状態についての話です。

 

他のどの音楽を聞いたってこんな心情にはならないんです。

「幻燈」に収録されている曲だけではなくて、多くのヨルシカの楽曲を聞いている時に頭の中によく浮かぶイメージがあります。

 

薄く、浅く、心(頭?)の中に水面が広がっていて、再生前にどんなにそれがざわついていようとも、ヨルシカの音に触れた途端、それはすぐにフラットになって静まり返り、suisさんの声で微かに揺らいだりして…

かと思えば、たびたびやってくる、盛り上がりだとか好きなフレーズだとか、楽曲中のある一音に反応して、ぐわと水量が増えて波が突き上げてくるような、巻き上がってくるような、それと同時に感情も溢れ出てきたり…と、

 

そんなイメージ。

 

でもそれは心の表層であって、水面と波に隠れて、奥底の方ではどこか違う様子もあって、

 

何かがつっかえるような、

何かがこぼれていくような…、

 

.

.

.

某曲とは違う類で「『穴が空い』ている」という状態が近しいような気がしているのです。

 

 

そして、この「穴」の正体が分からなくて、少し考え込んでしまっている今なのです。

 

ヨルシカの楽曲を聞いていることで空いた穴なのか、

それとも私の心にもとから空いていた穴が楽曲に撫でられて輪郭を増しているのか、

 

とか、

 

前者だった場合、作品の素晴らしさに心が撃ち抜かれて実際に空いたものなのか、

それとも作品に没入したことで擬似的に空いた穴なのか、

後者の場合は尚更にこの穴の正体が何であるのか、

 

とか……

 

 

答えの確かめようもない思考のささくれです、

深い部分に触れようとするのは良くなさそうな。

 

 

つまりこの記事はここで行き止まりなのです。

 

 

まぁ諸々何であろうとも、

私はいま、幻燈というアルバムの魅力に再度取り憑かれていて、全ヨルシカ好きにあの楽曲たちを聞いてほしくてたまらないと思っている、

というのが確かな確かな事実としてあるわけでございます。

 

 

 

みなさん買いましょうね、聞きましょうね、幻燈。画集の、ですよ。

幻燈 (画集アルバム)

 

 

それでは、今回はこんなところで…

またいつかm(_ _)m